報恩講準備会
今年初企画【報恩講準備会】
何人集まっていただけるのか
何時間かかるのか···未知数···と思いきや、
お集まりいただいた皆様のお陰で、開始から一時間半程でお磨き完了✨
Before&Afterの輝きの違いをご覧くださいませ〜😆
軽いお茶休憩後は境内の草取りもお願いしました。孤独な作業でなくなると、楽しく♪そして早い!!
19日の報恩講に向けて、引き続き準備頑張ります🙋
ご参加の皆様、本当にありがとうございましたm(_ _)m
5月19日(水)、浄敬寺報恩講がお勤まりになりました。
「お勤まりになりました」という表現におや?っと思われる方もいらっしゃるでしょうか。
私も初めて耳にしたとき、文法的に不思議な表現だな~と感じました。でも、この表現の深い意味を知り、なるほど!!と思わされたことです。
何か仕事をするときに「私が○○する」という思いや感覚で行うのは当たり前の日常です。しかし、これは私事なこと。報恩講は仏事です。
仏事となると、方向が大逆転します。逆転するとなると、私が勤めているのではなくて、私にまで届いた師や先人の歩みが私に報恩講を勤めさせてくださっている・・・ということになります。
「仏が私に今もこうして教えを届けてくださっている」「仏が私に今日の仏事を勤めさせてくださった」・・・主語が『仏』になります。『仏』は師や先人、先立って仏さまになられたご先祖。教えは弥陀の本願。これで、「お勤まりになりました。」が文法的に成立しました☆
親鸞聖人の御命日のお勤めが報恩講。親鸞聖人の生き様や教え、親鸞聖人が伝えてくださっている弥陀の本願について、改めて教えていただく日です。しかし、日頃の自分の在り様があまりにも教えに背いていることに気付かされます。
報恩講はごく身近な言葉で言うならば、「ごめんなさい」と「ありがとう」の日だと思っています。
お参りくださった皆様お一人お一人に背景や歴史があって、御本尊・親鸞聖人の前に今日こうして押し出してくださったのだな~としみじみ感じます。また次の年の報恩講がお勤まりになるように、日々つとめていこうと思っった次第です。
今年は午後から帰敬式も行いましたので、写真撮影を古くからの友人にお願いしました。撮影していただいた写真が届きましたら、こちらにも掲載させていただこうと思います。
感染症の不安も尽きない状況下でしたが、お参りいただきました皆様に心より感謝申し上げます。
連日除雪作業の皆様、ご苦労様です。お身体痛めておられないでしょうか。
新潟~北陸地方に大雪警報が出てから約一週間…やっと降雪はおさまりました。柏崎市内の小中学校は三連休の後、二日間の臨時休校になりましたが、明日から学校も再開とのことで、今日は埋まっていた通学路を何とか確保!!
記憶にある限りの、私の幼少期(昭和58~59年=五九豪雪)以来の本格的な大雪でした。浄敬寺の所在地は海寄りなので、屋根の雪降ろしをするほどには積もらないのですが、久々に雪の山ができ、部分的に屋根の雪降ろしも行いました。
地元を離れられている方もいらっしゃるかと思いますので、雪の境内地周辺の様子、ご覧くださいませ。
海寄りの柏崎には珍しく、風もなく雪が降り積もり、欅に花が咲いたようになりました。美しい雪景色です。
ここから記録を伸ばし・・・
三日間降り続いて、すっかり雪の壁が出来上がりました。本堂前の写真はピーク時ですね(‐‐;)危うく上下が繋がりそうになり、本堂内側から崩しました。除雪機も大人もフル稼働な中、子どもたちは比較的安全な中庭で大喜び。かまくら・秘密基地・そり用滑り台を作り、どこに出かけなくても、庭で十分楽しんだ模様です。
雪は好きです。この雪が一年の水を確保し、美味しいお水とお米を育てて、冬があってこそ春が美しい。ちょっとばかり雪かき(方言ですね)に時間を使いましたが、全く憎めない雪です。雪国でよかった。。。
今年は大雪予想でしたので、引き続き、雪の事故や特に除雪中の事故に、どうかどうかお気を付けくださいませ。
最後に、雪が積もって笠がロシア帽のようになった親鸞聖人像を。温かそうなのか寒そうなのか、一瞬迷いました(笑)
およそ800年前、親鸞さまもきっとこの越後の地で、こんな雪の中で生活されながら、お念仏をいただき直していかれたんだろうな~と思っています。
南無阿弥陀仏
毎年春の報恩講を延期いたしまして、心配しておりましたが、10月8日(木)、無事にお勤めすることができました。
坊守の生きがい(本人談)のおときがご用意できず、衛生面への配慮等々、慣れないことに試行錯誤ではありましたが、無事に報恩講をお迎えすることができ、今年初めて参詣してくださった方もおられ、一同心より喜んでおります。
新潟市よりお越しいただいた今泉温資先生の熱のこもったご法話に、力をいただかれた方も多っかったことと思っています。
親鸞聖人の御命日のお勤めである報恩講(ほうおんこう)は、真宗門徒にとっては一年の節目です。
感動だけ、喜びだけに終わらず、深く広いご恩を感じながら、今ここから新たな一歩を踏み出していけたらと思っております。
昨年に引き続き、ビオラ奏者の村井さんから演奏していただき、素敵な音楽に胸がいっぱいになりました。
そして、皆さんの音楽を聴かれている穏やかなお顔を拝見しながら、声明(お釈迦様や宗祖のお言葉に節をつけて音楽のようにいただくことを「しょうみょう」と言います)を志す者として、密かなライバル心を燃やした私です(笑)
心地よくて、これこそお浄土の響きという「声」を届けたいのです。。。
今日からまた、精進&研究します!!!
勤行中の写真がないのは、私(准坊守・晴香)もお勤めしておりまして、母に頼んだのですが・・・「あ、しまった」だそうです(笑)お許しを。
ご参詣の皆様、スタッフとしてお手伝いしてくださった方々に心より感謝申し上げます。
カレンダーでは春分の日と秋分の日は祝日でお休み。その日、お寺ではお彼岸のお中日の法要が勤められます。
字のとおり、お中日を真ん中の日として前後3日の一週間がそれぞれ春と秋のお彼岸です。
「彼岸」とは「彼(か)の岸」、阿弥陀のさとりの世界である浄土を意味します。それに対して私たちの生きている世界は「此岸(しがん)…この岸」です。
お彼岸とは生死の迷いの世界から浄土のさとりの世界に到ることを願う仏事です。
悩みや苦しみを抱え…というと、「楽しいこともたくさんあるよ」と思われる方もおられるでしょう。しかし、自分の悩み苦しみだけでなく、目の前にいる人の悩み苦しみ、そして私を生かしてくれる大地の悲しみ(自然環境の問題はここに当てはまるでしょう)にも、目を向けず心を寄せることもせず、時には見なかったことにして生きているのが、私たちの有り様かもしれません。
お彼岸の思想は、悩みや苦しみを超えた浄土に生まれたいと願わずにはいられない、私たち人間のいのちの奥底から生まれました。そして先祖代々受け継がれ、でいる大事な仏事です。
コロナ禍といわれる状況ではありますが、春のお彼岸に続き、秋のお彼岸もお勤めすることができました。また、この夏に得度した長男次男も、得度のご報告を兼ね一緒にお勤めさせていただきました。
「新しい生活様式」を意識しつつ、受け継がれてきた行事を工夫しながら続けていければと思っています。おときはリスク回避のため手作りせず、高柳の「とくぜん」さんのお弁当をお参りいただきました。
お参りいただきました皆様に感謝申し上げます。
毎年八月の第一日曜日は浄敬寺夏のおたのしみ会。お寺が一年で一番にぎやかになる日…なのですが、今年はこの状況(泣)
ということで、8月1日(土)午後4時~6時、時短版お楽しみ会『世界で一つだけのマイ念珠を作ろう』を開催しました。
念珠を作る前に、「手を合わせること」をお話してから、作り方の説明をして、取り掛かりました。
出来上がったお念珠で『正信偈・念仏・和讃・回向(同朋奉讃式)』をお勤め。
可愛いパステルカラーな色合い、きれいな色合い、涼しげな色合い、かっこいい色合い・・・同じものは一つもない!!皆さんのセンスに驚きました。
まさに、「みんなちがってみんないい」ではないですか!!(金子みすゞ)
一つの紐で繋がっていて『お念珠』という役割を担っていて、ひとつひとつの珠がそれぞれの素敵な色を邪魔しあわない、美しさを損なわない。
何かとってもいいですね☆
恒例の記念写真をパチリ。(*フィルター加工済ですが不都合ありましたらお知らせください)
ご参加いただきました皆様、ありがとうございました。「もう一回作りたい!」「今回は都合つかなかったけれど、私もお念珠作りしたい!!」という方がおられましたら、遠慮なくお知らせください。
本堂・お寺の玄関は、できる限り精一杯開けておりますので、また遊びに来てくださいね(^^)
浄敬寺久々の年中行事、盆参会(ぼんさんえ)別名・盆内(ぼんうち) 兼 新盆法要、例年と少々形を変えながらも、無事お勤めすることができました。
お参りいただきました皆様ありがとうございました。再会できたこと、こころより嬉しく思っております。昨今の状況ですので、軽い体調不良でも自粛してくださった方もおられたかもしれません。日頃から極力、寺の玄関は開けておりますので、ご都合のよい時にお気軽にお立ちよりいただければと思います。
7月14日・15日の2日間の盆参会の様子です。写真で様子をお伝えしますのでご覧ください。
住職、『末燈鈔』より親鸞聖人88歳の時に書かれたお手紙の内容をあげて、お話しておりました。
「なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとの死に合いて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり。」 真宗聖典P603
簡単に意訳しますと・・・
「去年や今年は飢饉や疫病で老若問わず沢山の方々が亡くなられ、悲しいことです。しかしながら、生まれた以上いつどうなるか分からない命をいただいて生きているのは、如来の説かれた道理であると既に教えられていることで、驚くようなことではないのです。善信(=親鸞)の身でいえば、亡くなられた臨終の様子がどうであったかということは問わないのであって、信心の定まった人・疑いの心のない人は、すでに往生することが定まっているのです」
と記されています。
准坊守・晴香、記録写真を撮り、引き続いての読経の準備もしながら…のながら聞きでしたが、「いつどこでどんな時に臨終の時を迎えるか、誰も、勿論自分も分からないわけだけれど、私の口から出た南無阿弥陀仏のお念仏が既に如来他力の行であるならば、臨終の時も如来のおはからいにて往生させていただけるのだし、どんな世の中になっても、いのちの限り他力のお念仏を称えさせていただきながら、精一杯この娑婆を生ききるしかないな~」と思った次第です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
秋のお彼岸、延期している報恩講お引上げをどのような形で勤めることができるのか、これから秋にかけての世間の状況・動向を注視しながら検討いたしまして、またご連絡させていただきます。
皆様、どうかお身体大切に、そして他力の念仏ひとつのご信心を大事にお過ごしください。