明日、12月13日(日)は年末法話会です。
浄敬寺では、報恩講をはじめ年間に様々な行事を行っていますが、年に2回は講師の先生をお招きしての法話会を行います。
年末のこの時期に我が身を振り返りながら、聴聞することは私自身とてもよいご縁です。この一週間、家族一同、皆様をお迎えする準備を着々と進めておりました。
開会式を兼ね、浄敬寺同朋会物故者追弔勤行を行います。ぜひお参り、ご聴聞していただければと思います。
さて、今日は改めて『法話』って何だろう??ということを書いておこうと思います。
インターネットで検索をかければ、ウィ〇〇ディアやそれらしいサイトが検索に引っ掛かり、一般的な意味は知ることが出来ると思います。
・・・ので、今日はワタクシの見解も少しだけ含め、書かせていただきます。
『法話』は基本的には儀式とセット。お通夜やご法事の席でお聞きになられる機会があるのではないでしょうか。
お釈迦様のお話された教えの内容をお弟子さんが書き留めたものが、お経です(…三蔵法師が孫悟空を連れて天竺までいただきに行ったものですね)。覚えやすいように、伝えやすいように、文体の整った形に記されています。
それを、現代の私たちは法要で拝読しているのですが、もしかしたら僧侶が読んでいるものをすべて「お経」とよんでいるかもしれませんね。本来「お経」と呼ぶのは、お釈迦様が直接お話になられたことが記された経典のみ。読経の際は音程の上がり下がりなく読まれています。そのお経と共に法要で読まれているのは、その後の高僧によって記され「お経」を註釈または解説した「偈文」です。
しかしそれも漢文ですし、節をつけて読むことに適した形ですので、現代語訳ではありません。
そこで、『法話』の出番!!
『法話』は、「お経」やそれを解説した「偈文」の現代語訳・解説と思っていただけたら…と思います。
お経に説かれているのは、実はとてもとても身近なお話です。
私が私としてこの世に生を受けたことの不思議。生まれて以上その命を返して死んでいくことの不思議。当たり前であるはずの老いや病を素直に受け入れられず生に執着してしまう私の有り様。その私にいつもいつも身の事実を教え、救おうとする働きがあること。
それを、私たちの日常や世間のニュースを例に挙げ、いわば手取り足取り伝えてくださるのが『法話』です。
私も法話をさせていただく機会がありますが、『法話』は決して一方的な説教ではないと感じています。聞いてくださる皆様と課題を共有しながら、話し手と聞き手が一緒に仏様の教えを聞いていく。
「だれひとり漏らすことなく救う」と誓われた仏様の願いがあきらかになる場・座が、法話の席です。
明日のご法話の講題は「コロナ禍の時代と真宗門徒―宗祖いまにましませば―」です。
現在の状況に右往左往して生きている私。この状況の中でも拠り所を失わず、一本芯の通った生き方をしたい…そう願った一年でした。年末のこの時期だからこそ、一緒に確かめましょう。ぜひぜひご聴聞ください。
合掌